合掌造りでは、家長を中心とした血のつながった家族が一緒に暮らしており、例えば、遠山家ではだいたい30人、多い時で50人くらいの人が1階部分に住んでいました。
このあたりは山が深く、雪も多い寒冷地であり、稲作に不向で穀物はあまりとれなかったので、「養蚕」をおこなったり、江戸時代には火薬の原料になる「塩硝」を作ったりして、現金をかせいで米を買うという生活をしていました。
大人数で一緒に住むことで、これらの生産をおこなうための働き手を確保することができました。
合掌造りに住んでいる人には、5日ごとに「シンガイ」という仕事が休みの日がありました。
○養蚕
生糸とマユ | カイコ(幼虫) | カイコ(成虫) |
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屋根裏では、おもに「養蚕」をおこなっていました。
養蚕とは、「カイコ」の幼虫を育てて、「マユ」を作らせ、「生糸」を生産することです。
養蚕によって現金収入を得て、そのお金でお米を買っていました。
○塩硝づくり
江戸時代には、合掌造りの床下で、黒色火薬の原料となる塩硝の生産をおこなっていました。
塩硝は水に溶けやすく、雨の多い日本では、天然ではほとんど採ることができませんでしたが、白川郷の寒冷な気候と、雨の影響がない室内において生産され、寒い冬にはイロリの熱で少し温めることができることが、塩硝づくりにちょうどよい環境でした。
塩硝づくりは、イロリの近くに穴を掘り、草・カイコのフン・良質の畑土を交互に積んで塩硝床を作り、その上に時々人の小便をまいて作っていました。 そのため、トイレは大と小で場所が分かれていました。
○シンガイ
合掌造りに住む人々は、家長やその相続人以外は正式な婚姻を行いませんでした。
しかし、婚姻関係がまったくなかったわけではなく、「通い婚」が行われていました。
合掌造りでの生活には、5日ごとに「シンガイ」という仕事が休みの日がありました。
シンガイには跡継ぎ以外の人たちは合掌造りのまわりに建てられた小屋で、通い婚夫婦や親子が水入らずで過ごしていました。
この日は家長から食料がもらえないため、家長から貸し出された畑や自分で山を切り開いた焼畑などで自分たちの食料を用意したり、自分たちが使うためのお金をかせいだりしていました。